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朝9時に伊豆に住む友人に起こされた。今日来ると言っていたが、家に来たのは夕方6時だった。古い友人に会えて嬉しい。こんな友人が、俺にはまだ残っていたのだ。彼も喜んでいた。焼肉屋へ行ったのだが、座席に座ろうと靴を脱いだところで転んでしまったし、立ち上がれなくて、お店の人と友人に抱えられてようやく立つことができた。彼も一人暮らしで肉が食べたかったようなので良かった。店の前まで車を持って来てくれるし、本当に世話になった。古い友人達の話しや、昔一緒に暮らしていた祐天寺の話しなど、話しは尽きない。泊まっていくように言ったのだが、帰りたいと言うが、その気持ちは分かる。昨年、カミさんを亡くして彼も一人暮らしだから、なんとなく家に帰りたいのだろう。そういえば、葬儀に行ってから、もう一年か。近くに住んでいたら遊びに行けるが、さすがに石廊崎は遠い。夜9時頃に帰って行った。
歯医者へ。分断していた入歯を修理してもらった。やっぱり歯垢の掃除をされてピクピク。苦手だ。雨が降っている。天気予報では晴れだったのに。ニュースの時間に予報士が謝っていた。まあ当たらないこともあるでしょう。歯医者が終ってからベトナムの娘の家に向かう。半蔵門から〇〇まではなかなか遠い。しかし4時半に着いてしまったので、5時にお店が開店するまで待つ。近くの焼肉屋だったのだが、私が右折を忘れたから思い切り遠回りになってしまった。せっかくお店の近くの駐車場を教えてもらったのに、歩くのが本当に駄目になっていてフラフラ。2歳の子供に手を引かれても、着いていけない。今日は歯医者と焼肉屋の両方で歩いた気がしていたが千歩程度の話しだった。焼肉は久しぶりにお肉が食べられて嬉しかった。一人暮らしの最大の問題は、お肉を食べる機会がないこと。料理をしない者の責任というだけだな。子供は、言葉も話せるようになっているし、お母さんに抱っこも言葉で要求できるようになっている。そろそろ自意識も芽生えて記憶に残る年頃だろう。子供はやっぱり可愛いなあと思うが、お母さんは大変だとも理解できる。子供を持ったことのない身には、あの苦労は分からないだろうな。焼肉を一杯食べてから帰って来た。満足。
眠い。しかし、よく頑張った。9時に起きて柏市の病院へ出かける。9時45分に家を出て1時間15分の余裕を見ていたのに、16号線の大渋滞につかまって、11時にようやく駐車場に車を置いた。それから必死に歩き、苦しいマスクをして、入口で手続きを済ませて2階の一番奥の診療科まで必死に歩いて行ったのに、入口でマイナカードも登録しないといけなくなっていて、もう一度行って下さいと言われたが、さすがにもう歩けないので拒否。いくらなんでも酷すぎる。診察はすぐに終り処方箋を書いてもらって、病院の支払いに並び、薬屋で待って、ようやく自分の車に戻れたのはお昼過ぎになっていた。歩行歩数は1700歩。私としては相当に頑張ったのだ。しかし、この遠い病院まで、もうあんまり来たくない。この病院のすぐ近所に友人が住んでいて、帰りにファミレスで雑談するのが楽しかったから通院していたのだ。しかし、8月にコロナで死んでしまった。でもなあ特養に入っていてコロナで死亡というのは、どう考えても変だ。きっと病院に送らなかったのだと疑っている。せっかく雑談の出来る友人だったのに、とうとう居なくなってしまった。だから、もう柏市までわざわざ来るのが嫌になってきた。話し相手が居ないのは寂しい。ウチに遊びに来たことのある同じ年齢の友人達は皆いなくなってしまった。ウチにある馬鹿な収集品を見て、馬鹿だと言ってくれる友達がいなくなるのは本当に寂しい。俺は人生に何の不満もない。今の生活にも満足している。これ以上欲しい物もない。しかし、同年配の友達は欲しい。
急に寒くなった。さすがに今朝は、半袖の上着から長袖に替えて、チョッキを1枚着こんで出かけた。夏服が急に冬服になった感じだ。毎年の衣替えって同じ時期だったんだろうか。それにしても、もはや厚手の服と暖房が欠かせない季節に突然変わったようだ。
初めての女性首相誕生とか言われているが、私は好きではない。好き嫌いは個人的な問題だから、嫌いと言っても問題なかろう。なんとなくあの風貌が嫌いなのだ。余分なことを書くなと言われるかも知れないが、どうにも気持ち悪いのだから仕方がない。それより女系の天皇を認めた方がいいと思う。だって男系なんて結果的にそうなっただけの話しで、誰も決めていないのだから。東京が首都というのも誰も決めていないと思う。まあ、なんでも決めないのが日本の風潮だから、まあそれでも良いのだが、多分決めることが嫌いな民族なのだろう。私も何も決めないで生きてきたら喜寿になっていた。別に決めなくても人生困らないということだろう。しかし、何のために東大卒業したのと聞かれると、返答のしようがない。単に面白かっただけかも知れない。
最近、日本では歩き煙草をする人が居ないとか、町にゴミが落ちてないとか、電車に乗る時に列に並ぶとか、トイレが綺麗だとか言われるが、そんなものは一朝一夕にそんな風に変わったわけではないよと言いたくなる。昔は、どこでも煙草が吸えたし、ゴミはポイ捨てできたし、電車のホームは列車の来る方向を見てホームに横一列に人が並んでいたし、町のトイレは本当に汚かった。多分、皆が努力してここまで来たんだろう。車が合流する時に、間に入れてもらえるようになった時はカルチャーショックだったくらいだ。まあ、やれば出来るんだろうなあ。しかし、社会全体でマナーが普及するまでには数十年の時間が必要だったわけだ。
何もすることがないから株で一儲けしようかと考えて、一日眺めていたが、儲ける一番の方法は何もしないことなのだ。なんにもしないのが一番の近道だと思い出した。そうだ、何もしないのが幸運への道なのだ。まあ何もしない日が続くだけで感謝。
朝ホテルをチェックアウトして、まず友人が院長の診療所へ向かった。レントゲンから心電図まで撮られて、喘息の治療もしてもらった。大体、この診療所に行く時は、いつもゼーゼーハーハーと息切れしているから仕方がないかも知れない。確かに喘息の治療は効いた。息が楽になった。近くの病院だったら苦しくなるたびに行きたいが、名古屋では遠すぎる。10時に行って12時まで診察してもらって、山のような薬を渡された。覚えるのだけでも大変だが、朝晩に飲めばいいらしい。果たして続けられるかが問題だ。帰りのガソリンが少々心配だったのでガソリンスタンドを探したが、みつからず、子供の頃に通った小学校を発見。しかし、子供の頃の家から小学校まで意外にも遠いことも分かった。こんな遠い道を小学生だった自分は、毎日通ったなんて信じられない。母親は参観に来たりしていたから、さぞや遠いと思ったのではなかろうか。中学はもっと遠いから、子供だから通えたのかしら。幼稚園だって、電車で通園していたのだから相当なものだ。今じゃ小学校だって歩ける距離ではない。結局ガソリンスタンドはみつからなくて、来る時に浜名湖で入れただけで、田舎へ行ったりしたが、帰宅するまで充分に持ちこたえた。今日は曇り空で富士山は全然見られなかった。それにしても、診察を受けてから飲まず食わずで、休憩もせずに5時間半走り続けて帰宅。やっぱり疲れた。荷物を開けたのは、ようやく夜になってから。でも、とにかく片付けた。よく頑張って走ったなあと思う。
今日は、まずはお墓参りから、田舎の家に向かったが、道路が完全に封鎖されていて近づけなかった。村祭りの日なのだ。それにしても、ものすごい人混み。アナウンスによればお店が10数件あるそうだが、普段は店など存在しない宿場町。臨時の店かしら。テントが並んでいるのは分かった。お墓の位置は、毎回分からなくなる。墓場に並んでいる墓石が皆同じに見えてしまうからだ。今日はお線香だけ持って行った。しかし、ボキボキに折れてしまう。まあいいか。祖父母と両親が眠っている。手を合わせて、彦根城の近くの蕎麦屋へ行くのが定番。それから鮒寿司を買うのも定番コース。しかし、雨が激しくて、あんまりゆっくり歩いているとドンドン濡れて来る。しかし、早く歩けない老人なのだ。このまま名古屋に向かおうかと考えたが、新しい道をみつけて試す。長いトンネルが渋滞箇所をカットしてくれて便利。まだ時間に余裕があるので、擂鉢峠を通って、母の実家があった大垣駅の近況を眺めてから名古屋に戻った。丁度良い時刻に戻って来たので、高校の同窓会に出席。今日は名札が用意してなかったので、知っている顔は限られる。中学、高校と一緒だった友達は判別できるが、そうでない人達は、その他大勢になってしまう。衆議院議員になったK氏も出席して、いつもの調子。黙祷も恒例になりつつある。それにしても多勢が旅立ってしまった。毎年恒例の同窓会だが、最後まで残れるかが問題だ。
名古屋まで来た。昼過ぎに起きて家を出たから、それなりに遅くはなった。ちょっと疲れた。そもそも早起き出来れば明日の午後4時には余裕で着けるのだが、早起きは不可能と判断して前泊することにしたのだ。平日のホテル代は想定外に髙かったが、早起きするよりはまし。しかも新東名ではなく東名を使った。東名の方が、ガソリンスタンドがセルフではないし、食事もテーブルまで運んでくれる。新東名は何から何までセルフサービスばかりなのだから、どうにも好きになれない。それに東名は海沿いの道を通るから海が見られる。懐かしい風景が続くから好きである。中央高速の方が景色は綺麗だが、80キロ制限は多少イラッとする。東名は100キロ制限だから、まあ我慢は出来る。速度にイラッとしないなら、新東名よりも東名を使う方が好きである。
GHQによる占領が終ったのは昭和27年4月28日。村の通りのすべての家に国旗が立っていた記憶がある。まだ3歳半だから、国というものが分からなかった。隣りの彦根も日本か、母の実家がある大垣も日本かと母に聞いた記憶がある。そしたら、ずっとずっと遠くまで日本だと教えられた。その頃は、まだ世界とか外国という言葉さえ知らなかったと思う。あの頃は、どの家にも国旗があった。新年や祭日には、どこの家も国旗を立てていた。いつ頃からか国旗を見なくなった。ふとテレビの番組を見ていたら、幼い頃の記憶が蘇った。西暦を始めて知ったのは1955年。これも鮮明な記憶がある。オヤジの持って帰った風呂敷に、この年のカレンダーが印刷されていたからだ。世の中には色々な暦があると知った最初だ。昔のことを思い出すと、ふと懐かしい。
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