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今日も歯医者への長旅になった。相変わらず首都高は大渋滞。なんとか2時間で歯医者に着いた。壊れていた入歯を治してもらえた。こんなにいつも噛み砕くようなら固い入歯にすることも出来ると先生は言う。そもそもは、私の歯茎の手入れが悪いので、掃除しやすいように取り外しできるようにしたそうだ。しかし、最近は手入れも良くなったから固い物にして固定する手もあると言われた。しかし、固定するということは、将来的に取り外す時に痛い目に会うことだ。それだけはもう勘弁して欲しい。痛い目に会うのと比較したら、時々壊れて歯医者通いする方がずっとましだ。だから固定式の固い入歯は諦めることにした。要は比較の問題だったのか。痛さに比べたら、壊れるのは諦めよう。
再び外苑の銀杏並木に挑戦。駐車場までは入ることが出来た。駐車場まで行ければ、ほんの少し歩くだけで銀杏並木を見ることが出来る。それにしても、ものすごい人だ。半端じゃない。もう昔の静かな頃の面影なんてまるでない。周りから聞こえて来るのは良く分らない外国語ばかり。なんなんだ。なんで、こんな所が国際観光地になってしまったのか。勘弁して欲しい。せめて首都圏の人間だけが知っている観光地であって欲しかった。誰が発信したのか。許せない奴が居るものだ。そのうち日本国中こんなになったらたまらない。
いつもの首都高の入口が閉鎖されていて、延々と箱崎経由で帰ることになってしまった。だから今日も走行距離は100キロだ。連続して100キロの運転は、それなりに疲れる。
歯医者へ。往復5時間の旅。遠かった。3時に家を出て、5時に間に合うと思ったのに甘かった。渋滞で高速が全く動かず。常磐道が動かないので、7号線の小松川へ回ったのに、ナビに錦糸町で降ろされた。とにかく必死。なんとか5時20分頃に着けると分かって歯医者に電話したのが10分前で、まだ浜町だった。川を渡るまでが都心は遠い。何とか連絡出来て、歯医者へ飛び込んだ。オシッコも我慢の限界だった。割れた4つの入歯を持って行ったのだが、修理してもらえたのは1つだけ。でも、これで何とか上下一組が揃ったので、食事は出来る。俺が一番最後だと思っていたのに、その後に外人さんが来ていた。先生が英語を話しているのを初めて聞いた。全然普通に話せる人だった。歯医者が終って、全身の力が抜けていたのだが、やっぱり外苑へ銀杏を見に行かねばなるまい。そう思って向かったが完全に入口から通行止め。どうもデフリンピックの閉会式のようだ。仕方がないから帰ろうとしたのだが、ナビが何故か青山墓地から西麻布、六本木まで回らされて、結局箱崎ランプまで下道で走らされた。でも、久しぶりに懐かしい景色をあちこち眺めることが出来た。若い頃に遊んでいた町をたっぷり眺めたから、5時間の長旅も仕方がなかろう。それにしても、あの頃の友達の顔が浮かぶが、生きていると思われる人は全員行方知れず。行方を知っていた人達は皆かなたの世界。俺の若い頃の世界は、どこへ行ってしまったのだろう。
入歯の修理を頼みたくて、朝起きてすぐに歯医者へ電話したのに、午前中しか開いてないと言う。そりゃ無理ってもんですよ。ここから最短でも1時間半かかるんです。何とか明日の予約をお願いしたけど覚えていてくれるかなあ。歯が治らないと、私は何も食べられないのです。お粥でも買って何とか空腹をしのいでいますが、歯無しの悲しさで、まともな物が何も食べられないのです。お昼にヤクルトおばさんが来て、また新しい2週間が始まった。予定がなくなってしまったから、午後は郵便局へ年賀状を買いに行った。まだまだ続けるぞ。それからガソリンスタンドに寄って満タンにして、コンビニでお粥とスープを買って来た。早く物が食べられる暮らしに戻りたい。
太陽光パネルの点検と言って、怪しげな2人組が訪ねて来た。屋根の上に登って写真を撮って、部屋でご説明となった。そこまでは聞いていた通り。次に、このままでは屋根から火災になる危険性があるから、洗浄した方がいいと言う。まあ、このあたりまでなら許せる。見積り費用が10万円と言った瞬間に、私の危険ランプはポンと点灯。そもそも10万円というキリの良い数字が出て来るわけはないし、しかも10万円を越えた段階で、完全にデタラメだと分かる。お兄ちゃん達弁舌巧みに営業口上を述べていたが、10万円なんて言ったら誰も信用しないよ。5万円なら払えると話したが、グダグダ言って帰って行った。あんた達年金生活者に向かって10万円稼ごうなんて虫が良すぎるよ。大体、年金の金額を知らないね。それにしても、ウチに飾ってあるフィギュアが大層気に入っていたようだ。同じ物を持っていると言っていたから許してやろう。
洗濯。洗濯と言っても、やることは簡単。洗濯物をドアの中に放り込んでスイッチを押すだけ。洗剤や柔軟剤は洗濯機が勝手に入れてくれる。放っておけば、乾燥して出来上がってくる。昔は大変だっただろうなあ。母親は、井戸から水を汲んで、洗濯板でゴシゴシやって、絞って干すまですべて手作業で、寒い冬は冷たかっただろう。今の私達は、スイッチをポチで完成。フィルターを掃除するのだけが手間だが、他には何もしない。
買っておいたザクロを割った。しかし、実(種)がびっしりとは詰まっていなかった。そうなると食べるのが一苦労である。小さい頃に裏の方に、ザクロの木が一本あって、冬になると実を一個だけつけた。食べた記憶はないのだが、冬になる一個の実だけが印象に残っている。
病院へ行って、結果は問題なし。成績良いと言われた。次回の予約が2月の上旬だったので、「そこは旧正月なので遊びに行こうかと思ってます」と言うと、先生が「マレーシアですか」と聞いた。「ベトナムです」と答えた。マレーシアも悪くないけど、来年の当初の予定はベトナムである。日常会話が出来たのは本当に久しぶりだ。人と会話出来ただけで、ちょっと興奮。その帰り道にコンビニに寄ったら、レジのオバサンが「今日は早いですね」と言う。「病院に行った帰りなので」と話す。これで2回目の会話。普段、誰とも話さずに沈黙の生活を続けている身にとって、日常会話が2回も出来るなんて、最高に素晴らしい日だ。やっぱり話すというのは素敵なことだ。しかし、毎日家で顔を突き合わせて暮らそうなんて気はサラサラない。そんな面倒なことは2度としたくない。
妹達が田舎へ行ったようで、庭の写真を送って来た。それが家に帰った瞬間からピコンピコンと携帯が鳴り続けた正体だった。最初はなんとうるさい電話機かと思ったが、それは仕方がない。田舎の家の面倒を見てくれている妹夫婦には感謝するしかない。
またもルンバがベッドの下で止まってしまった。手が届かない。きっとゴロンと横になれば足なら届きそうな距離だ。しかし、ゴロンが出来ない。頑張って四つん這いになってみても、手足を伸ばせないないのだ。膝が痛い。手が伸びない。単にゴロンが出来ない。身体が固くなっているのと、立ち上がれなくなる恐怖がある。冷や汗をかきながら耐えてみたが、床にゴロンが出来なかった。最低の身体だ。明日、ベトナムの娘が来てくれたら頼むしかない。前回も同じだった。ルンバが途中で止まってしまう。何か原因があるはずだが、マニュアルを読む元気もない。どんどん身体が弱って行くのを感じる。
記憶も弱って行っている。断片は思い出せても前後関係や状況が思い出せなくなっている。昨日テレビで釣り堀のシーンが出て来て、このシーンは人生の中で経験したはずだと思うのだが、なんでそんな場所に行ったのかが思い出せない。自分で行くはずはないから、誰かに連れて行かれたのだと思うのだが、さっぱり覚えていない。釣り堀の淵を歩いている自分の姿だけが思い出の中に存在していて気持ちが悪い。釣りは、小学校の低学年の頃に父と祖父とで遠い川まで行った記憶がある。地図を見ても、田舎の家から比較的近い川でも6~7キロある。針に餌をつけた記憶と帰り道が遠かった記憶だけが残っている。なんで、オヤジ達がそんなことを思いついたのか今となっては確かめる手段はない。当時は日記も書いていないから、私の記録にも残っていない。不思議な記憶の断片は所々にあるのだが、一体いつ頃のことで何をしていたのかも思い出せない。
ずっと休みの身には連休は関係ない。確かに、昔は連休が楽しみだった。予定を自分で決められるのが嬉しかったのだろう。しかし、予定なんて何もなくなってしまうと、はてさて自分は何をしたいのかと考えてしまう。そうやって、いつのまにか5年以上過ぎ去ってしまった。喜寿なんて喜んでみても、単に世の中から忘れ去られて行くだけのことだ。人生で何をしてきたのかと考えてみても、誰からも忘れ去られること以外は何もなかったなあ。
東京で木枯らし1号が吹いたようだ。とうとう冬になった。夕方、コンビニへ行って、ふと今まで感じていた歩く時の息苦しさが消えていることに気付いた。1ヶ月薬を飲み続けていた効果が現れたような感じだ。このまま息苦しさが消えれば歩けるようになるかも知れない。
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