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保険会社から朝の9時に電話。私には真夜中で、頭も身体も働かない。要するに自己負担5万円と今後3年間は毎年2万円保険料があがるのを考えて保険を使うか自分で払うか決めろと言っていたようだ。俺にとっては5万円の現金が要るということだろうと理解して、後は難しことは考えたくない。未だ恐怖が抜けないのだ。あの事故を考えるだに、よくぞ帰って来れたと怖くて仕方がない。なるべく考えないようにしているが、途中で気付いたら、本当にパニックになっていただろう。怖い。
夕方、買物に行くために初めて代車に乗った。行って帰って来るまでは何とかシフトレバーが動かせていたのだが、自宅の駐車場へバックで入れようとしたら、シフトの仕方が分からなくなった。もう大混乱。車が来なかったから良かったが、冷や汗もの。マニュアルを読んで多少分かった気になったが、もう乗りたくない。すべてがスイッチ式になっていて、分からないのだ。一応、考えて2日分仕入れて来たから大正解。しかし、なんでこんな分かりにくい車を作るんだろうなあ。
町内会から回覧と議決の要請が回って来たが、班長さんのポストに投函と書いてあっても、どの家か分からない。住所の案内をたまたま貰っておいたから大体の位置は分かったが、そもそも近所に誰が住んでいるかは知らないのだ。
タイヤが無かった。恐ろし。よくぞ、タイヤ無しのホイールだけの車を運転して昨晩は家に帰り着けたものだ。途中で気付いていたら、怖くて凍りついただろう。気付かなかったのが良かったのだ。朝、起きた時には、右後ろを橋のコンクリートにぶつけて壊したと信じていた。起きて目で見たけど、たいしてへこんでいないから、多少機械が壊れた程度だと思っていた。保険屋さんの連絡先が分からなくてメールしたら、すぐに電話がかかってきた。それから破竹の勢いで物事が動き始めた。まずトヨタに電話したが6月までは受け入れ不能と言われて焦る。しかし、近所の店を紹介してもらって、そちらに頼む。次にレッカー移動が必要だが、これも保険でカバーされていた。そしてレッカー屋さんが来て、後ろじゃなくて前ですよと指摘されて、初めて車の前輪が無くなっていることに気付いた。びっくりなんてものではない。前輪が無いのだ。普通のレッカー車では移動不能。それからトラックを呼んでくれた。妹も到着して、びっくりしていた。俺だって知らなかったからホイールで道路を削りながらでも帰って来れたのだ。車をトヨタ店に運ぶ。ウチの近所にあるのは昔から知っていたが、最初に買った店が新大久保だったから付き合ってきたのだ。でも、ここなら近い。見積を出してから検討することになった。もしかしたら廃車かも知れない。その帰り、代車屋さんから電話があり、急いで帰る。持って来たのはニッサンの最新車。操作がさっぱり分からない。ちょっと怖い。すべてが電子化されているようだ。乗るのが怖くて、妹にコンビニまで連れて行ってもらった。なんか、ものすごく疲れた。
車を壊した。これでは明日から生きていけない。しかし、壊れた車で何とか家までたどりつけた。途中で、真っ暗闇の中で、ここで止まってしまったらどうしようと何度もパニックになりかけた。ガタガタと音がして、コンソールはすべて警告ランプだらけで、スリップするし、もう駄目かと思った。悲しいというよりも、これじゃ修理屋に持って行くことも出来ない。どうすりゃいいんだ、この私。
午後、介護ホームに入った友人を訪ねた。幸い入口に駐車場があった。インターフォンで中に入ったら、部屋に案内された。既に先に別の友人が来ていた。しかし、小さいベッドしかない部屋に閉じ込められていては気が滅入ってくるだろう。もうちょっと訪ねてあげたい。幸いアルツの症状にはなっていなかった。でも、こんな所に長居をしたら、そのうちおかしくなるだろう。俺の末路も同じかと思うと気が滅入る。別の友人が帰るので、どこかまで送りましょうかと言ったら、結局自宅まで送ることになってしまった。彼の自宅で、銚子丸という寿司屋はどうかと聞かれたので、そのまま食事に出かける。何でも評判の店らしい。でも、俺は帰っても晩飯がないのだから、食事が出来るだけでも幸いだ。その店で別れた。途中で2箇所、事故で大渋滞に巻き込まれた。そして最後は三郷中央で降ろされたのだが、その先のカーブでハンドルを早く切り過ぎて、橋梁のコンクリートに車の右後部を思い切りぶつけてしまったわけだ。ガツンと跳ね返されてから、車が悲鳴を上げるようになった。ガタガタゴリゴリすごい音で、タイヤがスリップするし、パネルは真っ赤だし、家に帰り着けるかと不安だった。
いと重から和菓子が届いた。これで手土産の用意は出来た。次の最大の問題は駐車場と、駐車場から目的地まで歩けるかどうかだ。歩いていない身には相当な難問だ。上板橋の友人から桜に写真が送られて来た。東京へ初めて出てきて住んだのが、上板橋の学生寮だった。その頃の友人で生き残っているのは彼くらいしか居ない。お互いにくたばる前に一度くらい会いに行きたいものだ。少し下着が汗臭くなってきた。最近、風呂に入っていないなあと気付いた。昔は一日一回は必ず風呂に入っていた。それが、いつ頃だろうか。比較的最近だと思うが面倒くさくなってきたのだ。一人暮らしで誰に会うこともないし、汗臭くてもあんまり気にならなくなってしまった。老人になったものだと思う
夜中、床に白い光が揺れる。ポルターガイストか。ウチに動くものは私以外には居ないはず。白い光が激しく揺れている。揺れる光など無いはずだ。ついに、ウチにも10年目にしてポルターガイストが登場するようになったのか。それとも何かの前兆か。それにしても、よく揺れる。もしかして、どこかで地震が起きていて、その揺れで何か光が揺れているのだろうか。テレビを付けてみたが地震の情報はない。しばらく揺れる光を見ながら、ハテサテこの正体は何か。電気を消してみたら、床の光も消えた。だから光が存在するわけではない。何かに反射している光だ。しかし、揺れているものなど部屋の中には居ない。だんだん大きくなって、そのうち床から光が飛び出して来たら何が起きるか。幽霊さんとご対面できるか。ちょっと期待を込めて見守っていた。床で光が揺れている以外に何も起きない。そして気付いた。トランクに付けた名前ラベルが暖房の風で揺れていたのだ。その光が床に当たって白い光になってユラユラしているだけだった。せっかくポルターガイストに対面できるかと思ったが、分かってしまえばつまらない。
身体がだるい。昨日まではグチャグチャの部屋がストレスになっていたが、昨日娘が一気に片付けてくれたおかげでストレスはなくなった。しかし、身体のだるさは治らない。これはストレスが原因ではなく、体力が弱って来ているからだろう。世の中は春に向かっているようだが、自分は次第に寝たきり老人になりつつある。脱出方法が見えない。いくら寝ても身体のだるさが抜けないのだ。なんとか普通の体調に戻りたいのだが、寝ても駄目か。きついなあ。
16分の1くらいにカットしたメロンを食べながら、美味しいなあと思うと同時に、少し惨めになった。昔だったら丸ごと買って食べていただろう。それを思い出したら、カットしたメロンをほじりながら食べている自分が少し可哀そうになった。近くのスーパーでは、これ位小さくカットした物しか売っていない。2キロ離れたスーパーへ行けば売っているだろうと思うが、その2キロを運転する意欲が沸かないのだ。だんだん自分の気力も衰えて来ていると感じる。
天使がウチにやってきた。2時にピンポンとチャイムが鳴り、誰かしらと1階に降りて行くと靴が転がっている。一瞬、状況が理解できなかった。ウチの中に他の人が入っている状況が理解できなくて、アレレと疑問符一杯。でも、ウチの鍵を持っているのは娘しかいない。嬉しかった。そろそろ限界なので助けを求めようとしていたところだったのだ。部屋は足の踏み場が無いほど散らかり、段ボールが散乱。ペットボトルや缶も限界。ゴミ限界の中でベッドもグチャグチャ。トイレの掃除も終ってない状態。でも身体が動かないから何も出来ないのだ。身体が動かせない。すっかり寝たきり状態に近づいている身には、そこにあるのも動かせなかった。それが天使が登場して次々に片付けて、掃除をしてくれる。もう感謝感激。3時過ぎにゴミ捨て場まで運んで、コンビニで買物をしてから駅まで送って行った。嵐が通り過ぎるような時間だったが、気になっていた事は皆片付いた。
歩行困難な私が、ほとんど不可能を実現した。きついだろうと前々から想像していたが、想像以上にきつい試練だった。しかし、到達した。不可能が出来たのだ。大学へ向かう。まず駐車場は雷門前に停めればタクシーがつかまえ易いと思って、浅草雷門へ。何と駐車場が閉鎖されていた。この時点で少々パニック。次は上野駅にある駐車場に向かう。ここは、タクシー乗り場が半端じゃなく遠いのを知っている。ヨタヨタと駅構内を歩く。最後の階段を見た時に、ここを降りられるかと不安がよぎった。でも、かろうじてタクシーに到達。実は息切れして既に歩行困難状態。東大正門前に横付けしてもらって、感謝しかない。しかし、ここからが最大の難関なのは分かっていた。正門から安田講堂までが強烈に遠いのだ。若い頃ならなんてことない距離なのに、行けども行けども先は長い。そもそも20歩ほどヨタヨタ進むだけで息切れするのだから仕方がない。遠くから見ている人が居るのは分かっていても、こちとら前に進めないのだ。ヨタヨタしていても、体力は消耗。ようやく一歩ずつ安田講堂に近づいた。そして最後の階段。わずかな段差でも自分にはとんでもない差。受付にはYさんが待っていてくれた。銘板と一緒に写真を撮ったのだが、ほとんど判読不能だった。それから正門に出るまでが難航苦行。足を前に出すだけで息切れする。とにかく正門を出ればタクシーが拾える。そこまで到達できれば家に帰れる。なんとか到達してタクシーに乗れた時には人生の偉業を達成したような気分。上野の駐車場でも自分の車まで歩くのがきつかった。車に乗り込んで、ようやく帰れると分かった。そして帰って来て、ガソリンスタンドに寄ったのだが、1リットル当たり184円と表示された時には目を疑った。どうも今日から値上げになったらしい。とんでもないことが起きている。
咳が激しい。朝早く目が覚めてしまって、咳こんでは寝ようと努力するのだが、なかなか寝付けない。COPDなのは分かっている。しかし、きつい。咳が止まらないからだ。何とか止める薬を探したがみつからない。ゴホンゴホンと咳こんでは目が覚める。身体はくたくたに疲れている。大震災から15年目の日だという。しかし、私にとっては母が亡くなって15年という方が大きい。あの年の2月に母が亡くなって、ジャカルタからその日の夜行便で帰って来た。次の朝に日本に着き、田舎に向かった。そして葬儀を済ませて再びジャカルタに戻って、今日は昼飯を食べ終わってオフィスに戻ったら、皆が日本が大変なことになっていると話していた。津波の映像を見ながら何が起きているかも分からなかった。そして、原発事故だ。日本に帰国して驚いたことは首都高に車が走っていなかったことだ。何が起きたか分からなかったが、部屋の中では鏡が割れて散らばっていた。泣きそうになりながら片付けた記憶がある。そうか15年か。
よく頑張った。自分を褒めてやりたい。そもそも自分の車に乗り込む姿勢すら出来ない身なのに運転して歯医者まで出かけて壊れた入歯を修理してもらって帰って来たのだ。こんな体力が残っているとは思わなかった。しかし、家に帰ったとたんに眠気に襲われて、ベッドの上から動けなくなった。歯医者は駐車場から歩かないといけないが、これが歩けない身には果てしなく遠い。待合室の椅子に座り込んでいたら、歯科助手の子が壊れた入歯を受取に来てくれた。これは助かる。しばらく、ウツラウツラしていたら、「オジイチャン」と呼ばれた。誰かと思ったら、元気なAさんが目の前に居た。何でもお母さんも認知症げ出てきて、放っておけなくなったらしい。お父さんだけかと思っていたら、お父さんはまだ元気だと言う。とうとう彼女の家も最後の時代に突入したわけか。これからが意外に大変な日々なのだ。でも幸い彼女の場合は近所に住んでいる。でも誰もが直面する時代。歯医者は散々痛い目に合わされた。
午前5時にホテルをチェックアウトして、午後7時に自宅に到着。丁度12時間の旅である。しかし、家に着いた時には完全にヘロヘロ。ウチに帰れるかどうか自信がなかった。よくぞ帰って来れたものだと思う。午前5時前にHちゃんがホテルの部屋まで来てくれた。俺のチェックアウトに合わせるには、相当早起きしてタクシーを探さないといけないから、大変の労力をかけてしまったわけだ。家に帰って来ても、面倒を見てくれるHちゃんんが居ない。寒々とした家に帰って来て、相当に寂しい。ホーチミンでも搭乗口は一番遠い位置だったし、成田に到着しても、最も離れた位置に飛行機が横づけされた。これを歩くのがシンドイ。ゼーゼーハーハー言いながら、とにかく一歩ずつ前に進む。合計3千歩を越えていた。前に人が居ると、邪魔だ邪魔だと声が出てしまう。とにかく前に進みたいだけなのだ。しかし、後から考えると、よくぞ3千歩を歩ききったと思う。ホーチミンの空港では、行列を短縮できるように手配してくれていたが、中に入ってからはとにかくターミナルの端まで自分の足で歩くしかない。成田は、とにかく中央口まで歩き切らないといけない。途中で何度もめげた。しかも、車に乗ってからは、足がつりそうになりながら大渋滞に突っ込んで、途中から一般道に降りてからも足がきつくてしんどかった。でも、とにもかくにも家に着けた。すごい大冒険だったように思う。もはや海外旅行は俺には無理かも知れない。大体飛行機に乗ったり降りたりするのが無理なのだ。悲しいかな、これが現実の体力である。今回の旅行では、皆に助けてもらって何とか移動できたが、一人では無理だと良く分った。
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